トランスメディア提供アイコン01 浅間は遠くなりにけり?? そうなんだろうか?

明治は遠くなりにけりと言うが大正が15年昭和が63年平成も30年、今2018
なら 浅間から数えて未だ 58年しか過ぎてないよ。
 
私達アマチュアライダーが 公道以外の場所で
オートバイ で腕自慢出来るように成ったのは 浅間が有ったからです クラブマン連盟を作った
だから競技 競走 が出来るようになった事だけは知っておいて欲しい。

それまではプロのオートバイ乗りとオートバイ屋さんのお抱えライダーしか腕自慢の出来なかった!
浅間が終わって たった3年で鈴鹿 生駒 多摩と走る場が出来たが

それは,やはりあの浅間クラブマンレースが有って,  鈴鹿,富士が出来たのだから。
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故森田先生はアマチュアライダー(中学教諭)として浅間で一般ライダでもレースを
走れる環境をモーターサイクリスト社 社長故酒井文人の片腕となって
西に東に駆け回ったクラブマン連盟創始仲間の1人です  
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1959年久振りに500ccクラスで浅間を勝った20歳の  ↑
 故イトウ シロウ (本当は史朗フミオと読む)  
16歳で浅間を征し世間の目を浅間レースに向けさせた功労者の NO 1 だろう。

もう少し詳しく歴史を知りたい人は http://kuremami.hp.infoseek.co.jp/ito/ito.html
もっと知りたい人は   http://noda-kenichi.hp.infoseek.co.jp/ を紹介します。

http://www.iom1960.com/ ←このHPもすごいですよ

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1960年第二回全日本MX 朝霧 BSA500でブッ千切る伊藤史朗  ↑

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58年浅間グラブマン国際。 16歳で浅間を勝って以来この年19歳も勝てなかった
彼は速過ぎた マシンを操れてもマシンをいたわることは未だ出来なかった。
但しこの年は完走している それは泥濘化したコースがレーススピードを落とした
のが幸いしたのかも  ↓その時の勝利者 ビル・ハント 米軍軍人
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B・ハントは浅間をロードレースと考えず  エンデューロ と考えて居たのがわかる。
ハンドル形状・タイヤ選択。

泥濘の中を BMWで苦戦する 伊藤 史朗
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 トップを走るビル・ハント それを追う J・Kホンダ のTriumph ↓
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 1958年の浅間火山レースクラブマン コースは田植えが出来そうだった。
 
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1959年 浅間クラブマン国際 この時もオバースピードでBMW60sは途中でエンジン止まった
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しかし次の500ccクラスでは高橋国光と共に ペースを守り1・2フィニツシュした 
その時のゼッケンが 254 始めの写真です。

1958年浜松米軍基地 ドラックレース 0~400mm の風景  ↓
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  優勝のBSA  ↑
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優勝した望月 修のBSA ↑   ここでは勝てなかったビル・ハント ↓
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パリラ 175にのる コマンド中尾さん ↑
コマンドのアルバムには今見ると興味深い写真があります スナップ ↓ ホンダSE350?
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 浅間の  桂田選手  と 黒鷲 藤岡選手 59年  ↓
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BSAゴールドスターで走る京都 小谷 彰さん ↑

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 日本最初の250cc4気筒 レーサー 1959年  ↑

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この二人の 少年もやがて4輪のレーサーとして活躍するのです ↑

この浮谷君の本を後年読んで 明治天皇との繋がりのある 伝説の人
堀川辰吉郎が浮谷東次郎の母方の祖父であると知ったとき、
不思議なつながりに驚いた

1959 YD-1 改マシンで善戦する藤岡氏 1959黒鷲と呼ばれた 信太山
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1959 浅間 ヘヤーピン YDS-1 砂子義一氏 ヤマハスピードエンジョイC
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1959 浅間 ヘアーピン HONDA CR71 故渥美勝利氏 ホンダスピードC
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こんな珍風景も長岡京競馬場のダートレース。中部でも熱田祭り,津島天王祭り
一宮真澄田神社祭りでも年1回の レースはあつた。 静じい



(浅間レース以前の戦後のレース)

『この記事は 中野広之先輩』の HP から お借りした 浅間レース1957年以前の
記録・記憶である。 富士登山レースは(1953・54)と すでに開催が済んでいた。
尚 中野先輩は ここ5年ぐらい 個人的にも HPコメントにも 返答がなく・・・・
富士登山レースの記憶のみ 拝借 しました。  しかし私も、もうすぐ84才

本田宗一郎の最初の目標は、昭和30年(1955年)7月に開催された「MFJ第3回富士登山レース」制覇であった。富士山の麓から2合目まで登山道をかけ登るタイムレースである。モトクロスとトライアルが混ざったようなこのレースは、宗一郎の好みではなく、過去2回のレースにホンダ・ワークスチームは参加していなかった。しかし、この年はちがった。宗一郎が陣頭指揮をとって、準備が進められていった。

ホンダチームは、125㏄のモーターバイク・クラスに発売したばかりのベンリィ号を2台、250㏄ライトウエイトクラスには3台のドリーム号をエントリーさせた。ライダーは250㏄クラスに野村有二、鈴木義一、鈴木淳三、125㏄クラスに藤井璋美、高橋邦良で、全員ホンダの社員ライダーだった。このうち鈴木義一と鈴木淳三は、後にマン島TTレースへ出場することにもなる。宗一郎は世界制覇の夢を社員とわかちあうことを大原則としており、ワークスチームのライダーを社員のなかから選抜することにしていた。従業員のなかで腕に覚えのある走り屋には、ワークスチームのライダーになる道が開けていたのである。ホンダチームは文字どおり会社をあげて組織されていた。7月10日のレース当日、ホンダチームのライダーは揃いの黒革ジャンプスーツに身をつつみ本田宗一郎の陣頭指揮でスタート地点の浅間神社に登場した。空にはホンダの社機であるセスナが飛び、万全の体制であった。

このレースに参加するマシンはノーマル車に限るとレースレギュレーションで定められ、改造禁止であったために宗一郎は秘術をつくして入念な整備をおこなったマシンを投入していた。前評判では、2クラスともホンダの圧勝が予想されていたが、125㏄クラスに思わぬライバルが出現した。垢抜けたスタイルをもつ2サイクルエンジンのYA1を発表してオートバイメーカーの名乗りをあげたばかりのヤマハだった。

ホンダもヤマハもレース1ヵ月前から合宿練習に入るなど、最初からライバル意識をむき出しにしていた。レース結果は250㏄クラスではホンダが1、2、5位とライバルのモナークやDSKを蹴散らして圧勝したが、

125㏄クラスでは新興のヤマハに負けてしまった。・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・国内レースでは昭和31年(1956年)の第4回富士登山レースでヤマハが圧勝、57年の浅間火山レースでもヤマハに惨敗している。・・・・(略)・・・・・。

以下は、黒田克祥さんが開設している「谷口尚巳さん」のホ-ムペ-ジ
(http://naomi-taniguchi.hp.infoseek.co.jp)の「世界が俺を待っている 本田宗一郎物語」
から、富士登山レース に関する記事を掲載させていただきました。


コレダ COX (4サイクル90cc)
ダイアモンドフリ-(2サイクル60cc)
富士登山レ-ス   1954・1955

「スズキ50年史」より 中野広之。

私が社会人の仲間入りをしたのは、第1回浅間高原レ-スが開催された1955年(昭和30年)春のことであり、それ以前の日本の二輪車レ-スの状況は知らないし、資料も持っていない。浅間レ-ス以前のビッグレ-スとしては、昭和28年(1953年)に開催された第1回富士登山レース、翌昭和29年(1954年)に開催された第2回富士登山レース・・・があげられると思うが、どんなコ-スで開催されたのか、どのようなレ-スカテゴリ-があったのか、又どのようなメ-カ-が参加したのか・・全く知らない。
 下記の記述は、昭和45年(1970年)に発行された「スズキ50年史」より、そのまま引用したが、もし当時の資料等をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると嬉しいのですが・・・。尚、「スズキ50年史」の「浅間レ-ス」以降については、私が書かされた文章である。

富士登山レ-ス

 昭和28年(1953年)7月12日、第1回富士登山レースが毎日新聞社の主催で行われた。スズキは、その年3月発売の後、たちまち世間の人気を集めたダイヤモンド・フリー号(2サイクル60cc)をもってこれに参加し、優勝を勝ち取った。
 富士登山レース以前のレースは、今でいうダートトラック・レースのようなもので、レーサーといっても、市販車を改造してただグラウンドを走りやすいように手を入れた程度のものを造り、浜松周辺では専売局跡や、磐田の城山などのグラウンドで走ることが多かった。それがしだいに熱があがってきて、レースで技術を競い合うことになり、富士登山レースということになった。
 富士登山レース出場車も市販車をベースにしたものであったが、エンジン関係にはかなり手を入れたものであった。 このレースのバイク部門に、山下林作選手がダイヤモンド・フリー号に乗って優勝し、スズキの名声を高めたわけであるが、ダイヤモンド・フリー号はそれまでにすで市販されていて好評を得、非常な売れ行きであった。

 これに自信を得た技術陣は続いて、翌昭和29年(1954年)春、4サイクル90ccの完成車コレダ号CO型を完成、その年の7月20日の第2回富士登山レース(日刊自動車新聞社主催)に再び山下林作選手がこのCO型で参加し、41分32秒8と、第2位を6.2秒引き離して連続優勝しスズキ技術の声価を確固たるものとしたのである。








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by sizuo71 | 2006-06-25 10:41 | 静じいの  昔話 | Comments(8)

Commented by 練習菌 at 2005-10-21 11:13 x
あ?しびれ切れました?写真の修整は終わってるんですが、
HTMLに作るのが家のマシンでないと出来ないので、トド凍っております。
今しばらくご猶予のほどを m(._.)m ペコペコッ
Commented by 班長 at 2005-10-21 12:31 x
日本もそうだけど、イタリアでも消えたメ-カ-が有るよね。
パリラは60年代まで残ったように記憶していますが、如何ですかね。
Commented by sizuo71 at 2005-10-21 13:47
菌さん 私の送った原稿では チンプン カンプンだったでしょう 暇にまかせて 手直してなおし  作って見ましたいかがですか?
Commented by 練習菌 at 2005-10-21 15:57 x
なんかこっちの方が写真がきれいだなあ。
お?一番下のデルモ立ちしている女性は何者?
牛乳瓶底眼鏡は東次郎さんかな?
Commented by sizuo71 at 2005-10-21 17:03 x
お母上, 姉上, お手伝いさん, 浮谷君  車はニッサン・オー巣チン
お姉さん 綺麗でしょ~~
写真もう二枚あるですよ!お母上も美人です今も綺麗なおばあちゃんデスよ~~
Commented by akifukuda at 2008-01-03 01:13 x
浜松のドラッグレースの写真、他で見たことがなくて実に貴重な資料になります。トラックバックができれば良いのですが・・・。
この時の天候は、終日雨だったのでしょうか?
それが分かると、下記のリンク先の写真がこのドラッグレースの時のものかどうかが分かるかもしれないと思うのですが・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/akifukuda/51260512.html#51260512
Commented by 静じい at 2008-01-03 10:19 x
この写真は 大阪のコマンド Of モーターサイクルクラブのアルバムからの 提供写真ですが 雨降りでしたね!
Commented at 2008-01-03 16:04 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。

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