81才 思い出したくない昭和23年へのツーリング
私は昭和23年(3学期1948年)から(中学2年)福井県武生市第一中学へ転校して居た。
空襲で焼き出され 昭和21年に岐阜県養老郡の山奥から 名古屋に帰ってきて国民学校を卒業。
家族は弟小1 祖母 母 4人 「父は網走番外地」・・父が母に美容室を戦前からやらせていたが 父が居なくなると同時に。戦後借りて居た店を追い出され・・・また極道の縁故を頼って 福井県へ
この時から弟と祖母は原爆から3年の広島市の親戚へ 離ればなれ1948・12月
昭和23年冬, 武生に,母と二人着のみ着のま,北陸本線満員列車で辿り着く。
バイクに乗り出してからは,何度武生市を通過したか? 一度も市内に入った事は無かった。
懐かしくはないが。81歳を越えて,あの場所は 今 友人は居なかったが・それでも
行って見て置かないと私の昭和16年から28年までの放浪生活の,昭23~24年に穴が空いてしまう。
2015・9・5 やっと行って見る気に・・・・・
高速を使えば名神・北陸道 越前市今庄ICから R8でたった 150km。 途中敦賀の海が見える。
今庄で下りてR8を 日野川沿いに下ってゆく。 1回きりの夏休みこの川でウグイや 鮎(鉄の8番線で叩く)を獲ったけど 魚より河川敷の畑で黄瓜やトマト を盗み食いした方が記憶鮮明。
67年前2階借りしていた家『GooglEarth』で調べて現存すること知っていた「奇跡の3軒長屋」 玄関側の道巾は1,5mで行き止まり,バイクは入れない「写真は裏道,昔武生高校のグラウンドバクネット裏」で,軽自動車がヤット通れる裏道、 2階の窓は高校野球が見るのに最高だった。
武生での生活は、アルバイトで夕刊 新福井新聞の配達を紹介され 始めるのだが社員3名,配達の子供3人の
今思えば 「ゴロツキ新聞」 手動の輪転機 1台 配達に行くと,そんな新聞取ってないと 怒られるので,
隙間に放り込んで来る毎日だった。 貰った給料は親子2人の食の足しだった。
転校した中学も6・3・3制 2年目で校舎は無かった,名古屋での中学も1年は校舎はなく旧制中学や小学校の校舎を転々・午前午後の2部制だったのだから。
武生一中は転校して半年後 1949年新築した校舎,私達が初めての生徒 当然上級生は無し。
土曜日で運動会の日だった・・・やけに生徒が子供に見えた・・・中学生だもんなあ~~~
67年が思い出を 消したのか コノ地を転校届けも出さず・・・名古屋に逃げ帰ったのがそうなのか,校舎の想いではまったくない。
3年の2学期だった。 又店が不振で私一人残して母が名古屋に,職探しに帰ってしまった,
相変わらず(新福井新聞の配達は続けていた)食う金には,ならなかった。クラスの文庫から借りて読み終わった3冊の本を私は, 近くの貸し本屋に・・・売ってしまったのだ~~
翌週朝礼で 担任の佐々木先生が 『全員目をつむれ,クラスの本を本屋に売った者が居る』
『皆目を閉じている, 誰にも解らん,正直に手を上げよ』 私は瞑ったまま奈落の底に吸い込まれていく自分を感じた・・・・手を挙げた 佐々木先生は『よし分った手を下げて目を開けよ』 そのまま授業が始まった。
先生は私を庇ってくださったのに・・・・・私は・・・・・
その翌日から不登校になり 新聞配達の8月の給料もらって。北陸線の連結デッキに立ったまま名古屋に
逃げ帰ってしまった。機関車の煙を一杯吸い込んで 肺網リンパ腺になった。 転校届けも無し
昭和24年(1947)9月帰ったから名古屋で中区前津中学には3学期まで転校できなかった。 高校受験前に2学期不登校。 今から思うと無茶をやったものだ。
『その後バイトをしていた 新福井新聞は 昭和の歴史に残る大事件を起こす』
武生からの帰り道は下道R365を木ノ本まで走った 。
木の芽峠 こえて木ノ本から 揖斐の坂内村をめざす。
この1年で関節の老化を ひしひしと感じる シフトの回数に比例して クラッチ握る左手がシビレル。
シフトを繰り返す 左足首が痙攣を起こす たった往復370kmでも 帰り道の山の中では辛い。
夜叉が池 坂内スポーツランドに寄り道 10数年振り
BMWG650X 燃費34.5Km/L
「新福井新聞の歴史に残る大事件とわ」 私が武生を去っ去った直後。
1949年9月20日に福井県武生市で発生した裁判所および検察庁施設への放火事件である。 1949年9月20日午前5時頃、福井地方裁判所武生支部及び福井地方検察庁武生支部の建物から出火。一時間あまりで裁判所の裁判記録、検察庁の証拠書類等を含め全焼した。 地方における司法行政の中核を成す施設での火災であること、加えて消火活動に向かう消防車が走行不能妨害工作を受けたことなどから、警察は悪質な放火事件として断定。捜査が進められた結果、暴力団組長及び組員らが検挙されるに至った。 主犯の暴力団組長は、在日朝鮮人連盟の支部員であり、連盟を解散させられたことか...
この暴力団が新福井新聞社員3人 であったと当時のラジオニュースで知った。 配達のバイトだった私に取り調べは無かったが・・・・・
私は戦争で昭和16年に名古屋市立白川国民学校に入学 戦後昭和21年東区筒井国民学校を卒業したから 小学校は卒業してない。 その6年間に 5度の転校をしている。
昭和16年 白川国民学校入学 現在名古屋市中区白川公園
昭和18年 戦時体制により 門前国民学校に転校 現在大須小学校 名古屋市中区
昭和18年 空襲に備え学童集団疎開で 現犬山市 城東村国民学校に親元を離れ通学
写真は 母子の別れを 近くの写真館で撮ったものだろう。 学帽廃止 学童も兵隊さんと同じ戦闘帽
ここのお寺から 4年生と6年生は 毎日軍歌を輪唱して 学校に通った 現存 福昌寺
この寺の縁側からは 空襲で燃える名古屋の空が真っ赤に染まるのが 見えた・・・
4年生なかば空襲で大須にあった家は焼けた 先に岐阜県養老郡の山の中へ疎開していた祖母と弟と合流
養老郡時村国民学校に転校 昭和19年
昭和20年8月 5年生で 終戦 昭和21年 名古屋市東区筒井国民学校へ転校22年卒業
1947年(昭22) 新制中学市立桜丘入校 1組60人 AからN組まで14組の 1年生教科書なし校舎無し
半年で 東中学(ヒガシ)と大曽根中学に分割 昭和23年東中学は「市立あずま中学と校名変更」
戦争がなかったら空襲から~ 高校を卒業して 就職までの10年の『家無き子』は演じなかったはず。
それから70年 たった70年の中の 10年 されど思い出すには 惨い。
昭和18年 家族と(従兄 隼乗り19年ビルマにて戦死),祖父戦中に没, 祖母広島にて85才没, 母平成元年79才没, 我が家には父の写真は無い 弟現在奥飛騨市健在, 白線の学帽白川国民学校3年生わたし
この写真はS23年だろうか?弟と母、 祖母と弟が広島の親戚を頼って旅立つ前 6年間の別れ。
1950昭25年 中学3年の二学期を 休校してたのに よくまあ市立の,工業高校でも入学出来たもんだと今でも 運のよさに感謝している。 しかし卒業出来たのは 28人と言う 時代だった。
しかし高校在学中3年間に 名古屋市中区南呉服町 東区筒井町 中川区八幡町 中区旅籠町 中区西大須 中区西脇町 と6回も 間借りの住居を移っている。空襲が無かったら戦争が無かったら?
空襲で焼き出され 昭和21年に岐阜県養老郡の山奥から 名古屋に帰ってきて国民学校を卒業。
家族は弟小1 祖母 母 4人 「父は網走番外地」・・父が母に美容室を戦前からやらせていたが 父が居なくなると同時に。戦後借りて居た店を追い出され・・・また極道の縁故を頼って 福井県へ
この時から弟と祖母は原爆から3年の広島市の親戚へ 離ればなれ1948・12月
昭和23年冬, 武生に,母と二人着のみ着のま,北陸本線満員列車で辿り着く。
バイクに乗り出してからは,何度武生市を通過したか? 一度も市内に入った事は無かった。
懐かしくはないが。81歳を越えて,あの場所は 今 友人は居なかったが・それでも
行って見て置かないと私の昭和16年から28年までの放浪生活の,昭23~24年に穴が空いてしまう。
2015・9・5 やっと行って見る気に・・・・・
高速を使えば名神・北陸道 越前市今庄ICから R8でたった 150km。 途中敦賀の海が見える。
今庄で下りてR8を 日野川沿いに下ってゆく。 1回きりの夏休みこの川でウグイや 鮎(鉄の8番線で叩く)を獲ったけど 魚より河川敷の畑で黄瓜やトマト を盗み食いした方が記憶鮮明。
67年前2階借りしていた家『GooglEarth』で調べて現存すること知っていた「奇跡の3軒長屋」 玄関側の道巾は1,5mで行き止まり,バイクは入れない「写真は裏道,昔武生高校のグラウンドバクネット裏」で,軽自動車がヤット通れる裏道、 2階の窓は高校野球が見るのに最高だった。
武生での生活は、アルバイトで夕刊 新福井新聞の配達を紹介され 始めるのだが社員3名,配達の子供3人の
今思えば 「ゴロツキ新聞」 手動の輪転機 1台 配達に行くと,そんな新聞取ってないと 怒られるので,
隙間に放り込んで来る毎日だった。 貰った給料は親子2人の食の足しだった。
転校した中学も6・3・3制 2年目で校舎は無かった,名古屋での中学も1年は校舎はなく旧制中学や小学校の校舎を転々・午前午後の2部制だったのだから。
武生一中は転校して半年後 1949年新築した校舎,私達が初めての生徒 当然上級生は無し。
土曜日で運動会の日だった・・・やけに生徒が子供に見えた・・・中学生だもんなあ~~~
67年が思い出を 消したのか コノ地を転校届けも出さず・・・名古屋に逃げ帰ったのがそうなのか,校舎の想いではまったくない。
3年の2学期だった。 又店が不振で私一人残して母が名古屋に,職探しに帰ってしまった,
相変わらず(新福井新聞の配達は続けていた)食う金には,ならなかった。クラスの文庫から借りて読み終わった3冊の本を私は, 近くの貸し本屋に・・・売ってしまったのだ~~
翌週朝礼で 担任の佐々木先生が 『全員目をつむれ,クラスの本を本屋に売った者が居る』
『皆目を閉じている, 誰にも解らん,正直に手を上げよ』 私は瞑ったまま奈落の底に吸い込まれていく自分を感じた・・・・手を挙げた 佐々木先生は『よし分った手を下げて目を開けよ』 そのまま授業が始まった。
先生は私を庇ってくださったのに・・・・・私は・・・・・
その翌日から不登校になり 新聞配達の8月の給料もらって。北陸線の連結デッキに立ったまま名古屋に
逃げ帰ってしまった。機関車の煙を一杯吸い込んで 肺網リンパ腺になった。 転校届けも無し
昭和24年(1947)9月帰ったから名古屋で中区前津中学には3学期まで転校できなかった。 高校受験前に2学期不登校。 今から思うと無茶をやったものだ。
『その後バイトをしていた 新福井新聞は 昭和の歴史に残る大事件を起こす』
武生からの帰り道は下道R365を木ノ本まで走った 。
木の芽峠 こえて木ノ本から 揖斐の坂内村をめざす。
この1年で関節の老化を ひしひしと感じる シフトの回数に比例して クラッチ握る左手がシビレル。
シフトを繰り返す 左足首が痙攣を起こす たった往復370kmでも 帰り道の山の中では辛い。
夜叉が池 坂内スポーツランドに寄り道 10数年振り
BMWG650X 燃費34.5Km/L
「新福井新聞の歴史に残る大事件とわ」 私が武生を去っ去った直後。
1949年9月20日に福井県武生市で発生した裁判所および検察庁施設への放火事件である。 1949年9月20日午前5時頃、福井地方裁判所武生支部及び福井地方検察庁武生支部の建物から出火。一時間あまりで裁判所の裁判記録、検察庁の証拠書類等を含め全焼した。 地方における司法行政の中核を成す施設での火災であること、加えて消火活動に向かう消防車が走行不能妨害工作を受けたことなどから、警察は悪質な放火事件として断定。捜査が進められた結果、暴力団組長及び組員らが検挙されるに至った。 主犯の暴力団組長は、在日朝鮮人連盟の支部員であり、連盟を解散させられたことか...
この暴力団が新福井新聞社員3人 であったと当時のラジオニュースで知った。 配達のバイトだった私に取り調べは無かったが・・・・・
私は戦争で昭和16年に名古屋市立白川国民学校に入学 戦後昭和21年東区筒井国民学校を卒業したから 小学校は卒業してない。 その6年間に 5度の転校をしている。
昭和16年 白川国民学校入学 現在名古屋市中区白川公園
昭和18年 戦時体制により 門前国民学校に転校 現在大須小学校 名古屋市中区
昭和18年 空襲に備え学童集団疎開で 現犬山市 城東村国民学校に親元を離れ通学
写真は 母子の別れを 近くの写真館で撮ったものだろう。 学帽廃止 学童も兵隊さんと同じ戦闘帽
ここのお寺から 4年生と6年生は 毎日軍歌を輪唱して 学校に通った 現存 福昌寺
この寺の縁側からは 空襲で燃える名古屋の空が真っ赤に染まるのが 見えた・・・
4年生なかば空襲で大須にあった家は焼けた 先に岐阜県養老郡の山の中へ疎開していた祖母と弟と合流
養老郡時村国民学校に転校 昭和19年
昭和20年8月 5年生で 終戦 昭和21年 名古屋市東区筒井国民学校へ転校22年卒業
1947年(昭22) 新制中学市立桜丘入校 1組60人 AからN組まで14組の 1年生教科書なし校舎無し
半年で 東中学(ヒガシ)と大曽根中学に分割 昭和23年東中学は「市立あずま中学と校名変更」
戦争がなかったら空襲から~ 高校を卒業して 就職までの10年の『家無き子』は演じなかったはず。
それから70年 たった70年の中の 10年 されど思い出すには 惨い。
昭和18年 家族と(従兄 隼乗り19年ビルマにて戦死),祖父戦中に没, 祖母広島にて85才没, 母平成元年79才没, 我が家には父の写真は無い 弟現在奥飛騨市健在, 白線の学帽白川国民学校3年生わたし
この写真はS23年だろうか?弟と母、 祖母と弟が広島の親戚を頼って旅立つ前 6年間の別れ。
1950昭25年 中学3年の二学期を 休校してたのに よくまあ市立の,工業高校でも入学出来たもんだと今でも 運のよさに感謝している。 しかし卒業出来たのは 28人と言う 時代だった。
しかし高校在学中3年間に 名古屋市中区南呉服町 東区筒井町 中川区八幡町 中区旅籠町 中区西大須 中区西脇町 と6回も 間借りの住居を移っている。空襲が無かったら戦争が無かったら?
by sizuo71 | 2015-09-21 20:06 | 静じいの 昔話 | Comments(3)